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事実婚夫婦に、相続という現実がのしかかるのか?

いや、皆元気に生活しているのだが・・。

夫はこのところしばしば実家に帰って家族会議の日々だった。
それは亡くなった義母の相続について、なのであった。
彼曰く、一介の主婦がこんなに財産を持っているとは、と言っており、内訳が一応まとまったらしくその結果の内訳を、居酒屋で酒飲みながら、見せてもらうことになった。

父、兄弟3人、計4人での相続なのに、、一人頭の相続額に、少々クラクラと。
というか、彼自身、実家に住んでいた時間が長かったにかかわらず、ことのほか、預金額がなく、浪費しすぎじゃあるまいか、と思うことがあったが、まあこの相続額を見ると、いわずもがな、という感じである。

一方、この自分はというと、一人暮らしが長く、金が貯まらず、ちまちました貯金。地道とはなんぞや。
と思いつつ、人は多少相続しようとも、人間が一生にかかる額を考えると、やはり働き続けないといけないのである。

ちなみに、義理の父は倍以上のお金を相続した上、自分の資産もあるため、娘たちは「父が再婚することになったら、この財産の大半は持ってかれるぞー、大変だ」とブラックジョークを言ってるらしい。
なおさら、もしや、あなたの子供です、なんて現れた日には・・。そう、自分たちの財産を持ってかれたくないから婚外子差別があるんだな、とリアルに想像してしまう。

もう散財しまくるか、どっかに寄付してしまえばいいのに、と思う。

さて、万一、夫に何かあったとして、法律婚もしてなければ彼の資産は事実婚の妻には入ってこない。遺言もしてない。とりあえず、今のところは、他に子供はいないだろうから、息子一人相続する、ということだ。
まあ自分の財産(少ないが)もどうするかだ。
籍を入れる予定はない。遺言書いて、公証役場に行こうと思ってはいた。
相続はとても面倒なことになるので、おれが死にそうになったら、婚姻届出すといいよ、と夫。
いざこういう現実になると、リアルで露骨。
今現在、何より金に執着のない自分たち。

というか、いつ私たち二人は別れるかもわからない。ので、相続がどうの、もあまりリアルにこない。
その上で私自身いつリストラされかもわからないから地道を続けることは当たり前。
というわけで、思考停止している状態。

それよりも、贈与税の額を聞いて、その少なさに、実は驚いている。
所得税並みにもっていけよと。

いつもごはんをつくってくれてありがとう

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父の日の息子からの贈り物。
なんだか我が家の場合、こうなるらしい。

自分もご飯作ってんだが・・・

なお、二人厨房に立って困ること、というのは、食品の在庫が管理しきれなくなることだ。
今夜はハンバーグをつくるぞ、と思って買い物して帰ってくると、あるはずの玉ねぎやニンニクがなかったりすること。おいおい、いつ使いきったんだ、買い足しておいてくれよ・・・。
こういう場合、長ネギを使う、という許容力が、夫と違って、私には全くない。

事実婚への覚悟

とある事実婚関係の掲示板にて。
諸事情があり、事実婚という形で夫婦生活を続けたい、という女性の問いに対しての回答だ。

「事実婚は、かなり認知度があがってきたとはいえ、決してメジャーな選択ではありません。元々、周りとの多少の摩擦は覚悟した上で選ぶべきものだと思います。あなたとあなたのパートナーにそういう覚悟があるか?問題はそこだと思います。

事実婚をしたこともない人が、「覚悟」という看板を掲げて諭しているのには少々ひいてしまう。人生相談さながら、アン・ランダースか?。いや、アンならもっとウィットが効いてます。
どれだけ摩擦の実態を知って言っていることなのか。少なくとも例ぐらいあげるべきだろう。
だいたい、籍を入れたにしたって、どんだけ嫁姑で摩擦ってんだ、この日本は、と思う。
事実婚だけ取り立ててどうこういうほどのものでもない。
ていうか、「私は、摩擦の元となる偏見の塊です」と言っているようなものかもしれないが。

事実婚のスタートはいろいろだ。同棲や内縁や、フランスやスウェーデンのパクスやサムボ婚のようなお試し婚、色々だ。摩擦や覚悟をあおらなくてはならない夫婦別姓推進者の道具じゃないんだ、とまた言いたくなる。

ありえないだろう、役員人事表記

きょうも歩く東京メトロの新役員人事の表記について問題提起されており、我が家でもこりゃ一体なんだと話題になる(笑)。

確かに、会長、社長の名前だけが異常に大きく、変なガタツキがある。いまどき役員人事の紹介で社長の字だけ大きくしてる会社などないから、北朝鮮か?と思われてもいたしかたない。

実は常用漢字にない文字らしく、画像で作られているのだ。HTMLを見ればわかる。氏名画像の大きさが固定なのだ。
ちなみにIEの場合、文字の表示を「最大」にすれば、どの文字も均等な大きさになり、問題はない。
しかし、「最大」表示で使う人は、あまりいないのではないだろうか。デフォルトが中として、会長・社長の文字が他の2pt以上に見える。最小にしたら会長・社長名がひときわ大だ。
当然HTMLを書くWEB担当者は、表示のあらゆる状態を想定したうえでの外字画像作成をしてるだろうが、標準的な見え方がどうあるべきか、ということより、PC環境によって生じる誤表記(文字が「・」になっちゃったり)を避ける方を重視した結果なのか。
しかし、ここのHPで紹介される社長の名前はすべてその画像を使ってるから、違和感はかなり増す。

大きさについてはともかく、人の氏名など常用漢字で対応可能だろうが。
吉田の吉という字の上半分が、「士」ではなく、「土」が正しいので画像処理。梅埼の埼という字の辺が「土」ではなく「立」、ファーストネームの寿という字が、壽、いや、もっと字画が多い、・・あれ、そもそもこれなんて読むのか?(振り仮名付けてほしい)。
会長吉田氏については常用対応可と判断したかもしれないが、その下の社長の梅埼氏だけ画像処理すると、人事表記全体がいびつになるので、苦し紛れに、会長の吉田氏も無理に画像にしたのか。

それにしても東京メトロをクライアントとする取引先がこの人たちを宛先に文書を送る場合、いったい、どう処理すればいいんだろうか。画像作って気遣わないといけなくなるのか。

そもそも会社の広報的戦略からいえば、こんな七面倒臭い字で社長をアピールすることに何の意義があるのか。誰にも名前覚えてもらえないと思う、会社の顔なのに。
政治家だって、あえて、開いて平仮名にしてるくらいだ。いまどき。

広報的な考えが欠落した内向きな体質。が、こういう古い体質の会社が、客の名前より社長の名前を大きく表示することは、ありえないだろうに。
画像処理した事情は色々おありだろうが、一般人はいらぬ妄想する。
恥ずかしいからやめたほうがいい。

もはや公の場所で煙草は「一切」遠慮したほうがいいんじゃないの?

なんとなくショッキングな出来事があった。

二か月前、日曜の昼間、割と大勢で新大久保に参鶏湯を食べに行ったのが、その中で子連れの家族が、父と娘だけ先に帰った。娘が眠そうだったので、帰るってな具合だったのでみんなそう思ってた。
ところが、今日、その妻に聞いたら、帰った本当の理由は、仲間のタバコに我慢できなくなったからだという。

あぅ、、、確かに。言葉を失う。
そのお友達は、ある意味日本人離れしていて、すごいはっきり物を言う人で個性的で大好きなのだが、その彼が、言わずに帰ったことも意外でもあり、でも彼でも言えずに我慢したんだあ、と思うと。

そういう自分もタバコの煙にはずっと我慢してる。それでもここ数年、劇的にマナーの悪い愛煙家は減ったし、公の場所でもかなり禁煙に変化してきており、環境は快適になりつつある。
近頃、飲み会を開催しても、嫌煙メンバーだけ集まることも少なくなくなって変わりつつあるし、私の大好きなラーメン屋巡りでも、禁煙をうたってる店がちらほらある。
しかし、とはいえ、いろいろ集まりあると、我慢せざる得ない。メンバーから「吸っていいですか」と聞かれ、嫌だけど「どうぞ」と答える。どっちが気を使ってるんだろう。
たばこ飲みと一緒にレストランに行って、「おタバコすいますか?」と聞かれて「吸います」と答えている自分がいる。相手に合わせてる。
そんな人ってかなり多いんじゃないだろうか?
つまり、愛煙家は、予め、吸っていいですか、と断ればいいだろう、ぐらいに思ってるかもしれないが、
やっぱり嫌なんだよ。気づいてくれ!。
なんで少数の人たちの煙に我慢しなければならないんだろう。
特に飲み会。洋服や、髪の毛や、かばんに、みな、煙のにおいが染みついてしまうんだ。

友人の話を聞いて、やはり拒否らないといけないんだ、という意を強くした。
たぶん10年後、もっと日本は変わってるんだろうけれど、今がもっと良くないと、どうしようもならない。

父親の影響力なのか。21世紀出生児縦断調査(特別報告)結果の概況

財団法人「こども未来財団」が発行する『こども未来』6月号に休日に父親と過ごす時間が長いと「がまん」できる子に』との記事があったという。

残念ながらこども未来財団の記事を読む機会に恵まれないのだが、もともとは、厚生労働省「21世紀出生児縦断調査(特別報告)結果の概況」からの分析とのことで、こちらは即座にチェック可能。
どういう調査かというと2001年から毎年調査を続けていて、たとえば、子供が2歳6か月のときの「父親と休日に過ごすの時間」が、その子供が5歳6か月になったときに、子供の行動にどう影響しているか、というものである。「がまんすること」「落ち着いて話をきく」「ひとつのことに集中する」等いうことにたいして、子供の行動が、できる、できないのか、という問いをした結果。

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もちろん、父親との時間とを多くしてもらったほうがいいにこしたことはないのだが、何かこのジェンダーバイアスで母子家庭を否定するような感覚は腑に落ちない。

一方、『父親との休日との過ごし方別』という調査もあり、「家族と一緒に過ごす」「家庭内で家族とは別に趣味などをして過ごすことが多い」「家族とは別に外出することが多い」「もっぱら寝て過ごすことが多い」「仕事に行く、家で仕事をすることが多い」によって、子供のがまんや、落ち着きや集中にどう影響するか?結果は、「家族と一緒に過ごす」というのは、がまんや集中をもたらしているが、一方で、「仕事にいく 家で仕事をする」というスタイルも同じようながまんや集中力をもたらしているのだ。どれも同じようなカーブになっているのが面白い。

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わたしなりに考えると、仕事に行ったり、家で仕事をすれば、子供は遊んでもらえないから、我慢を強いられことと同様に、家にいても嫌なオヤジだったら、子供は我慢を強いられるのか、と思ってしまう(笑)。とまあそれはさておき、よくわからない結果である。

そもそも調査対象は子供でも、調査に回答しているのはいったい誰なのか、というと、父親ではなく、その多くは母親ではなかろうか、と思う。
となると、母親一人での子育ての時間が長くなれば、子供の行動にイライラし、彼らの行動の評価に厳しくなっていくのかもしれない。ただし、父親が仕事に行ったり、家で仕事をしてる場合については、ちゃんと稼いでくれてる、ということだから妻の精神状態は安定してきて、子供に対する評価も上がる??
などなど、妙な家族像を考えてしまわずにはいられない。
もう少し考察が必要だ。

いずれにしても、確かに父親の家庭回帰は必要だが、かといって、あたかも、母がいて父がいて、そんな家庭像を当たり前のように理想化するのも危険な気がする。家族や世帯や暮らしのあり方はひとそれぞれであるし、親のどういった行動が子育てにどう影響するかだなんて、性別ではなくて個性だろう。
しかも、会社人間で、普段母親より何もしてないような父親が、休日に何かした程度で、子供に良い影響をもたらしたとか、まあよく言うわ、と思う。男っていいね、ちょっと子育てや家事しただけで尊敬されるんだから。母・妻というのは割に合わない職業なのだな、というのが正直な感想だ。

厚生労働省からの調査票

厚生労働省から国民生活基礎調査票が届いた。
世帯単位のようだが、こういう調査の回答はちょっと悩んでしまう。
厳密に世帯でいえば、うちは2世帯だし、誰が世帯主なのか?とりあえず、父親でいいとして。
そして、誰の主たる生計者なのか(どちらが稼いでいるか)、というような問いもあったが、どっちなんだ?
世帯としての家族の一年の支出合計は・・・まったくわかりません。こっそり飲み代や服飾費や習い事の授業料や・・・そんなことお互い報告しない。
家族で暮らしていながら、そういう世帯感覚が自分に馴染んでないからだ、というのがよくわかる。
妻がすべて家計管理して夫にお小遣いを渡していれば、支出額も見えてくるかもしれないなあ。
役所側から見たら、同じ屋根の下に暮らしていれば、お財布も一緒だ、と思うのかもしれないが、みんな同じなわけないだろうに。
なお、婚姻届を出していない場合も、配偶者とみなす、というような記述があったので、事実婚や同棲や、そういったものも家族のセットとしてカウントはしているようである。

調査の意図も不明確じゃないか。
・・・と思いつつ、こんなことを真面目に答えようとしている自分がオカシイ、ということに気づいた。
でも、配布、回収を一生懸命している人がいるからなあ、と、適当に答えて提出した。

疑わしきは罰する

足利事件の菅家さんが17年ぶりに釈放、のニュースにはやりきれない思いでいっぱいだ。
その晴れやかな顔も、きょうびの62歳にしてはずいぶん老けていて、苦労したんだろうな、と勝手な想像をめぐらせてしまう。
日本での冤罪率は高く、日本の刑事裁判の有罪率は99%、アメリカでの陪審員裁判での有罪率は78%だそうである。そのポリシーは「疑わしきは罰する」である。
最近では、和歌山カレー事件が気になる。どうみてもあの顔は善人顔ではないので、死刑判決について何の疑問ももっていなかったのだが、状況証拠があまりにも乏しい現状を知ると、「疑わしきは」の最たる例で背筋が寒くなる。状況証拠をもっていて、シロかクロか、といったら、彼女に過去どんなバックグラウンドがあろうと、これはシロにせざるえない
事件の現場にたまたま通りがかっただけで、いつ自分は犯罪者にしたてられ、そして死刑になるかもわからない。
われわれが日々メディアを通してみるニュースに限らず、人々がものをみる目には常に偏見というバイアスがある。
裁判員制度も始まり、さらに複雑な思いだ。自分に赤紙が来ないことだけを祈る。

検疫強化の実態(新型インフルエンザ)

アメリカに行ってきた(大きな声では言えないが)。

ロスアンジェルス空港に降りてすぐ、まず、さっそく小さなシャトルバスに乗ってアナハイムまで向う。空港の道路を通り過ぎていく間く、バスや車を待つ日本人のマスクの集団が多数いたが、現地の人と他国からの旅行客の冷ややかな目線・・。そんな自分も成田からマスクをして参戦(藁)。
車内では、ある観光客が、豚インフルエンザの件を
「まったく過剰反応すぎるよ。すべてはビジネスさ。薬も売れるだろ。」
とあきれたように批判する。
その人に別れ際、
「ところで、どこから来たの」
と聞くと、
「メキシコシティさ」
・・う・・。 メキシコシティの人でもそう言う見方をするのか、ということと、着くなり狭い空間を共有してしまったこととで、ビミョーな気持ちになる。
そのあと、ドライバーからアドバイスを頂戴した。
「マスクはするな。でも手は洗え。人の多いところは気をつけろ」
なんだか、ここで吹っ切れる。

日本とは違って、こちらの人々はインフルエンザを大して気にしておらず、ずいぶんとリラックスしているように見えた。
行った当初こそ、USのTVでは新型(豚)インフルエンザのニュースが冒頭で放送されたが、約1週間の滞在中にやがて消えていった。

LAXでも、カリフォルニア空港でも、どちらも検疫を強化している感じではなかった。むしろテロ対策の方にいまだに注力している感じか。

しかし、日本に帰ってきたら、空気はまるで変わった。飛行機には完全防備体制の検疫官が入ってきて、健康チェック。サーモグラフィでの体温チェックがメイン。怪しい人には体温計を使って測らせる。
軽く1時間は越し、2時間近く機内に閉じ込められていた。10時間以上のフライトで疲れてるのに、さらにぐったりしてくる。私の前の席の人たちと、後ろの人たちが先に解放され、自分のブロックだけ最後まで残される。
体温計で測らされている人や、特別に質問されている人がいると乗客は何度も振り返って神妙な面持ちで視線を送る。
その間、検疫官からはなんの説明もない。外国人がいらだって、客室乗務員に質問を投げかける。
ここで万一、陽性の人がいるとすると、この2時間の延長の検査の間にさらに感染する可能性だってある。しかし、彼らの考えとしては、水際で防ぐことが重要だから、感染しようがここの人間さえまとめて隔離してしまえばいいわけだ。
正直言って、USAで搭乗する前にチェックしなければ意味がないと思った。もちろん、それは現状不可能なわけだが。ちなみにおかしいことにトランジットの人は検疫が免除なのだ。

さてやっと開放されると、成田空港では働いている税関や銀行の人や売店の人すべてがマスクをしていた。LAXとSFOの空港ではみられなかった光景だ。

さっそく今日の昼間、私の携帯に、近所の保健所から電話があった。体調については大丈夫ですか、という質問と、帰国してから10日間は注意をしてくれ、という内容。
びっくりして、何で私の海外旅行を知っているのかときくと、成田で提出した問診票に記入してあったからという。ああ・・そうか。
そしてこう言うのだ。
「もし熱が出たり、風邪の症状が出ても、病院には行かないでください。保健所に連絡をください」。
とにかく発症いたら隔離しようということだ。

それにしても、この人権無視とセットとなった検疫強化、いったい、どれだけのコストを払っているんだろうか。
確かに注意することにこしたことはないのはわかる。
楽観すぎるかもしれないが、しかし現状は弱毒性で日本は季節は夏に向かう。
万一大流行し致死率が上がったときには大変な事態となり、ついては経済的なダメージも大きいというが、いやいや、今この過剰な報道、反応が、かえって今現在経済的にダメージを与えている。
現状分析に冷静さを失ったうえに、無駄な財政コストを払い過ぎている、というのが正直な感想だ。

夫婦から自立しないとね。

結婚生活を何年かしてきて思うのは、妻としての自分が夫婦の中に埋没してしまうという現実をどうしようもできなくなってきた。
だれそれの妻、という自分でしかない御神崎。
夫婦の一部、というか、彼の一部でしかない自分。そんな無力感。
これはもちろん、二人で、もしくは家族でいるときは全く問題ないのだが、他人と過ごすときに痛感する。

夫婦単位での集まりにいくと、実につまらないことの方が多い、と思うのは自分だけだろうか?
自分が名前で呼ばれなくなったり、所在のなさをもてあましたり。自分が仕切ってやってきたことは、なぜか彼の手柄になる。
何より妻としてのふるまいをしないといけない。そんなジェンダー早く脱いでしまえばいいってのは「おひとりさまの老後」のけだし名言。
夫婦でなるべく一緒に行動し、楽しいときを共有しようと、ずっと思ってきたのだけれど、そんな努力は何の意味もないような気がしてきた。
がんばってスケジュール調整して、夫婦一緒に参加したところで、なんかつまんねーイベントだったな、ってなる。
というわけで、敢えて無理して、二人で一緒に参加しなくてもいいんじゃないか、と考えがかわってきた。
私は私の時間を過ごす。あなたはあなたの時間を過ごす。

・・・こんな当たり前のことに気づかなかったのか?!なんて思いつつ、これからは一人立ち宣言をしてみる。
彼は何の執着もないから、どうぞどうぞ、である。
よかった。